NHK紅白歌合戦の放送:
今年も大晦日にNHK紅白歌合戦が放送される。
今年も大晦日にNHK紅白歌合戦が放送される。
視聴率の低下:
視聴率が低下傾向にあり、昨年は番組史上最低の視聴率を記録。
視聴率が低下傾向にあり、昨年は番組史上最低の視聴率を記録。
存続の危機:
紅白歌合戦は過去にも存続の危機に直面したことがあり、1989年には番組終了の可能性が浮上した。
紅白歌合戦は過去にも存続の危機に直面したことがあり、1989年には番組終了の可能性が浮上した。
日本人は本当にNHK紅白を欲しているのか…平成元年の「打ち切り騒動」以来35年ぶりに番組を襲う根本的な疑問 - PRESIDENT Online 日本人は本当にNHK紅白を欲しているのか…平成元年の「打ち切り騒動」以来35年ぶりに番組を襲う根本的な疑問 PRESIDENT Online (出典:PRESIDENT Online) |
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:2024/12/31(火) 17:41:04.62 ID:iw1aSzqENHKの「紅白歌合戦」が今年も大晦日に放送される。社会学者の太田省一さんは「現在、紅白は最も難しい状況に直面している。だが、35年前には番組史上最大の存続危機という切迫した状態にあったことをご存じだろうか」という。
■紅白史上最大の存続危機が起きたワケ
今年で75回目を迎える「NHK紅白歌合戦」。視聴率は低落傾向にあり、2023年は前半が29.0%、後半が31.9%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)といずれも番組史上最低だった。このままいけば、番組の存続や大幅な改革をめぐる議論が高まる気配もある。だが実は、「紅白」にとってそのような状況は初めてではない。それはいつのことで、どのようなものだったのか。
「紅白」史上最大の存続危機。それは、1989年に起こった。
当時NHK会長だった島桂次が、同年4月就任時に「「紅白」をやめて、大晦日に国民的行事となるような新しい番組を考えられないものか」と語り、さらに9月の定例会見の場で「紅白歌合戦は今年で最後にしたい」と発言したのである(合田道人『紅白歌合戦の真実』)。
実際、この頃「紅白」は揺れていた。公共放送としてのあるべき番組編成をめぐる議論の高まり、「紅白」担当プロデューサーの制作費使途に関する不祥事、そしてなによりも視聴率の低落傾向がはっきり見え始めていた。
1988年の視聴率は53.9%。いまの感覚だときわめて高いが、1984年には78.1%もあった視聴率は翌1985年に60%台となり、さらに1986年以降は50%台と急速に下がり始めていた。
こうしたなかでの島発言だったわけである。島自身、芸能畑ではなく報道畑ひと筋で会長になった人物。そして当時、世界も日本も歴史的な転換期を迎えていた。
海外では、戦後の基本秩序である東西の冷戦構造が大きく揺らぎ出していた。1989年11月にはベルリンの壁が崩壊。さらに翌年にはドイツ統一があり、冷戦の終焉へとつながっていく。
一方日本では、1989年初めに昭和天皇が崩御。新たな元号として平成が定められた。敗戦からの奇跡的な戦後復興、そして高度経済成長を達成した激動の時代。そのなかにテレビの普及や「紅白」の国民的行事化もあった。その昭和が終わったのである。
こうして番組の終了という可能性が現実的に浮上するなかで、1989年の「紅白」は制作された。奇しくもこの年は、第40回という番組節目の年でもあった。]
■今に続く2部制はこうして始まった ※略
■「レコ大」が受けた思わぬ余波 ※略
■「今日この日のためだけのステージでございます」 ※略
■目玉は番組に縁の深い大物たちの復活 ※略
■「紅白」→「アジア音楽祭」という構想
続く第2部「平成の紅白」。ここは例年通り、その年に活躍した歌手のステージとなる。ただ、そこにも変化があった。
もちろん、工藤静香、中山美穂、Wink、荻野目洋子、少年隊、男闘呼組、光GENJIらのアイドル勢、八代亜紀、小林幸子、石川さゆり、和田アキ子、沢田研二、細川たかし、五木ひろし、森進一、北島三郎らの常連大御所組もいた。
だがその一方で、歌謡曲以外の分野の歌手も出場した。この年人気長寿番組の「ザ・ベストテン」(TBSテレビ系)が終了するなど、音楽番組全体が大きな転換期にさしかかっていた。その波は「紅白」にも押し寄せ、クラシック、民謡の歌手も出場。さらにはミュージカルから市村正親が出場して「オペラ座の怪人」を披露した。
また「21世紀に残したい歌」というのもひとつのコンセプトになっていた。由紀さおり・安田祥子姉妹が歌った「赤とんぼ」もそのひとつ。後に由紀は、同曲で1992年の「紅白」のトリを務める。童謡でのトリは史上初のことだった。
もうひとつの変化は、国際化の波である。
繰り返しになるが、1989年はベルリンの壁が崩壊した年である。そうした歴史の流れは翌年のドイツ統一へと至り、長く続いた冷戦体制が終わりを迎える。
こうした国際情勢を踏まえ、島会長の意向を受けたNHKでは「紅白」に代わる番組として「アジア音楽祭」を考えていたとされる。1989年の「紅白」に韓国や香港で活躍する歌手が複数組出場したのも、その流れが背景にあるだろう。
■ドイツの中心で長渕剛が叫んだ「日本人、みんなタコ」 ※略
■1989年の「紅白」が抱えた“外側からの危機” ※略
全文はソース先で
プレジデント2024/12/31 9:00
https://president.jp/articles/-/89550
■紅白史上最大の存続危機が起きたワケ
今年で75回目を迎える「NHK紅白歌合戦」。視聴率は低落傾向にあり、2023年は前半が29.0%、後半が31.9%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)といずれも番組史上最低だった。このままいけば、番組の存続や大幅な改革をめぐる議論が高まる気配もある。だが実は、「紅白」にとってそのような状況は初めてではない。それはいつのことで、どのようなものだったのか。
「紅白」史上最大の存続危機。それは、1989年に起こった。
当時NHK会長だった島桂次が、同年4月就任時に「「紅白」をやめて、大晦日に国民的行事となるような新しい番組を考えられないものか」と語り、さらに9月の定例会見の場で「紅白歌合戦は今年で最後にしたい」と発言したのである(合田道人『紅白歌合戦の真実』)。
実際、この頃「紅白」は揺れていた。公共放送としてのあるべき番組編成をめぐる議論の高まり、「紅白」担当プロデューサーの制作費使途に関する不祥事、そしてなによりも視聴率の低落傾向がはっきり見え始めていた。
1988年の視聴率は53.9%。いまの感覚だときわめて高いが、1984年には78.1%もあった視聴率は翌1985年に60%台となり、さらに1986年以降は50%台と急速に下がり始めていた。
こうしたなかでの島発言だったわけである。島自身、芸能畑ではなく報道畑ひと筋で会長になった人物。そして当時、世界も日本も歴史的な転換期を迎えていた。
海外では、戦後の基本秩序である東西の冷戦構造が大きく揺らぎ出していた。1989年11月にはベルリンの壁が崩壊。さらに翌年にはドイツ統一があり、冷戦の終焉へとつながっていく。
一方日本では、1989年初めに昭和天皇が崩御。新たな元号として平成が定められた。敗戦からの奇跡的な戦後復興、そして高度経済成長を達成した激動の時代。そのなかにテレビの普及や「紅白」の国民的行事化もあった。その昭和が終わったのである。
こうして番組の終了という可能性が現実的に浮上するなかで、1989年の「紅白」は制作された。奇しくもこの年は、第40回という番組節目の年でもあった。]
■今に続く2部制はこうして始まった ※略
■「レコ大」が受けた思わぬ余波 ※略
■「今日この日のためだけのステージでございます」 ※略
■目玉は番組に縁の深い大物たちの復活 ※略
■「紅白」→「アジア音楽祭」という構想
続く第2部「平成の紅白」。ここは例年通り、その年に活躍した歌手のステージとなる。ただ、そこにも変化があった。
もちろん、工藤静香、中山美穂、Wink、荻野目洋子、少年隊、男闘呼組、光GENJIらのアイドル勢、八代亜紀、小林幸子、石川さゆり、和田アキ子、沢田研二、細川たかし、五木ひろし、森進一、北島三郎らの常連大御所組もいた。
だがその一方で、歌謡曲以外の分野の歌手も出場した。この年人気長寿番組の「ザ・ベストテン」(TBSテレビ系)が終了するなど、音楽番組全体が大きな転換期にさしかかっていた。その波は「紅白」にも押し寄せ、クラシック、民謡の歌手も出場。さらにはミュージカルから市村正親が出場して「オペラ座の怪人」を披露した。
また「21世紀に残したい歌」というのもひとつのコンセプトになっていた。由紀さおり・安田祥子姉妹が歌った「赤とんぼ」もそのひとつ。後に由紀は、同曲で1992年の「紅白」のトリを務める。童謡でのトリは史上初のことだった。
もうひとつの変化は、国際化の波である。
繰り返しになるが、1989年はベルリンの壁が崩壊した年である。そうした歴史の流れは翌年のドイツ統一へと至り、長く続いた冷戦体制が終わりを迎える。
こうした国際情勢を踏まえ、島会長の意向を受けたNHKでは「紅白」に代わる番組として「アジア音楽祭」を考えていたとされる。1989年の「紅白」に韓国や香港で活躍する歌手が複数組出場したのも、その流れが背景にあるだろう。
■ドイツの中心で長渕剛が叫んだ「日本人、みんなタコ」 ※略
■1989年の「紅白」が抱えた“外側からの危機” ※略
全文はソース先で
プレジデント2024/12/31 9:00
https://president.jp/articles/-/89550